2023年3月に開催されたWBC2023を通してさらに盛り上がりをみせているスポーツである野球。大谷翔平選手や山本由伸選手など現役の選手にしてトップレベルで活躍している選手だけでなく過去に日本のプロ野球界を盛り上げた選手らにもより一層注目が集まっています。
今回はそのような過去に大きな活躍を残した選手の中でも村田兆治選手にフォーカスを当てて、引退後に起こした事件などを振り返っていきたいと思います。
村田兆治選手について
まずは村田兆治選手がどのような選手だったのかについて経歴や残してきた記録などをみていきたいと思います。
村田兆治選手の経歴について
村田兆治選手は1967年のドラフトにて1位指名を受けて東京オリオンズに入団します。1年は成績が振るわずパチンコや麻雀などの遊びに明け暮れていたといいます。しかしながら先輩投手らの影響により練習に打ち込むようになり、2年目から頭角を現してきました。1971年には投手コーチのアドバイスをもとに投球フォームを大幅に改造し、村田兆治選手の代名詞ともなる「マサカリ投法」の原型を作り出しました。
そして1976年にフォークボールを習得したことにより圧倒的な数字を残すようになります。その年は5回の完封勝利を含むシーズンで21勝をマークしました。結果としてこの年は最優秀防御率と最多奪三振を記録しました。
その後1983年にはトミー・ジョン手術を受け、以降2年間はリハビリしていました。復帰後のシーズンも開幕11連勝を記録するなど好成績を残し続けていました。
選手として最後のシーズンとなった1990年では、シーズン最終戦で勝利を挙げ10勝目をマークしました。当時、史上2人目となる40代での2桁勝利を記録して引退セレモニーを経て現役を退きました。
以上のように、特徴的な投球フォームだけでなく多数の功績を残している代表的な選手であるといえます。
村田兆治さんの引退後について
そんな功績を残されてきた村田兆治さんの引退後はニュースでも報道されていたためご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、詳しく振り返っていきたいと思います。
引退後はまず福岡ダイエーホークスの一軍投手コーチを務めていました。しかし、1997年終盤には体調を崩してしまい入院。その後2005年には長崎県対馬市に「対馬まさかりドリームス」というチームを設立し、投手兼監督に就任するなど積極的に野球と関わっていました。
そして年齢を重ねていく中で2022年9月に逮捕されてしまいます。その内容としては空港の保安検査場の金属探知機に何度か引っかかったことに腹を立て、女性検査員に対して左肩を押したとして暴行の疑いで逮捕されました。
さらに同年11月11日には東京都世田谷区の自宅から出火し、村田兆治さんは意識不明の状態で発見され病院へ搬送されるも一酸化炭素中毒により亡くなられました。出火原因は不明であり遺書はなく家の施錠もされていたことから他の人が侵入して火をつけた可能性は低いとみられています。72歳でした。
今まで様々な功績を残し野球界に多大なる貢献をしてきた大投手の死亡ということもあり世間に大きな衝撃を与えました。
村田兆治さんは引退後、始球式にも何度か登板しており引退後でありながらも120km/h前後の球を投げることから村田兆治さんの始球式には非常に注目が集まっており、多くのファンを楽しませていました。
最後に
今回は「マサカリ投法」で有名な村田兆治さんについて現役時代の活躍から引退後の晩年までを振り返りました。ご紹介したように多大なる功績を残してきたレジェンドといわれる選手の一人であり、晩年の日本プロ野球界に貢献している姿は多くのプロ野球ファンから支持されていたことかと思います。
気になった方は村田兆治さんの当時の投球フォームについての映像など残っていると思いますのでぜひチェックしてみてください。